ベトナム共産党が政権樹立をするにあたって最も重視したのは、国民に対する政治宣伝でした。1930年にベトナム共産党(当時はインドシナ共産党。党名はその後変遷し今日に至っています)が結成されて以来、党は革命の戦略的任務である植民地支配・封建体制の終焉、さらには国家統一による党の指導体制確立を目指してきました。ところが、敵は強大な軍事力を要する諸大国であり、それらの国々と対峙するには党の有する軍事力はあまりにも脆弱でした。そうした中で、当時のベトナムにおいて人口の大半を占める農民層の動員こそが革命成就の可否を握っていました。封建体制と植民地支配の下で困窮な状態にある人々をいかに説得し、「革命の目的」に覚醒させて前線へと向かわせられるのか、その方法の確立が極めて重要な問題になったわけです。
革命のための武装勢力の確立は、すでに1930年の自衛隊構想に始まり、40年の北部での「バクソン遊撃隊」と南部での「ナムキー遊撃隊」、41年に結成されたベトミン(ベトナム独立革命)の下での自衛隊拡充と、さらにそれらを囲い込むように次々に編成された救国軍小隊、そして、人民軍の前身部隊として正式に公認された44年の「ベトナム解放軍宣伝隊」へと発展してゆきます。この頃になると武装勢力でありながら、より広範な階層の人々をより多く戦闘の最前線へと動員する必要が生じてきます。それは蜂起を決めた党中央委員会の決定を延期させてまでも、人々の政治意識の周知徹底を優先させたホーチミンの意志にも反映されていたといえるでしょう。
こうして人民軍組織は広範な層の人々を吸収しながら、農民中心の軍隊としてその規模を徐々に拡大することになります。やがて45年9月にはその名称を「衛国軍」へ、46年5月に「ベトナム国家軍」、最後に50年の「ベトナム人民軍」へと改称してゆきますが、一貫していえることは肥大化してゆく軍の組織には常に政治工作・党工作のシステムが常駐し、人民軍の方向性を調整、決定していました。そうした動態も政治宣伝、政治工作の一環であることはいうまでもありません。
この項目で紹介するのは政治宣伝のツールとなった道具のほんの一例にすぎませんが、人々を革命と戦闘への参加、あるいは人民軍や武装勢力への参加へと誘った歴史的な証といえると思います。
1枚目と2枚目の写真は海外在住ベトナム人(このチラシでは主にフランスと思われます)に革命参加を呼びかけたチラシです。8月19日は45年の日本降伏後に実施された8月革命を意味し、同年3月にフランス軍から権力を奪取した日本軍が今度はベトミンから奪取されたのでした。このチラシには「8月19日!ベトナム民族が首都に政権を担った日だ、忘れるな、同胞たちよ!」(19-8!Ngay dan toc Viet-nam nam chanh quyen o thu do. Hoi Dong bao, hay ghi nho!)と印字されています。1945年当時の貴重なチラシです。
2枚目と3枚目、4枚目はマッチ箱です。外箱は木製でその上に小さな図柄が貼られています。若い男女の2人の兵士の箱には「抗米救国青年突撃隊」、ラッパ手が見える箱のほうには「全民全軍でアメリカを殲滅し国を救うために立ち上がろう」と印字されており、いずれも国営統一マッチ(工場)の生産となっています。戦意高揚のための宣伝がマッチにまで浸透されていることがわかります。
6枚目以降は手のひらサイズの歌詞カードです。小さいながら図柄の表紙と裏にはきちんと歌詞が印字されています。
ベトナム人民軍 革命と戦争へ人々を誘った政治宣伝 propaganda NVA/VC/Vietnamese people’a Army
19/04/2011 by Pẹt
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